2011/03/09

メイクアップフォーエバーのダニー・サンズ(Dany Sanz)インタビュー

パワフルなフランスの女性たちをご紹介しています。続いて、プロフェッショナルのための化粧品メイクアップフォーエバーのダニー・サンズさん。H&M PRESSの特別企画「ブランド・ヒストリー」のインタビューに応じてくださいました。彼女が語るブランド誕生秘話は、非常に奥深い。天性の才能に加えて、コミュニケーション能力の高さ、教え子に慕われる魅力などが、このブランドをここまで大きくしたのだと思いました。

ブランド・ヒストリー ~Make Up For Everー
才能に恵まれたメイクアップ・アーティストと彼女の教え子たちが生み出したプロフェッショナルのためのブランド、メイクアップフォーエバー。放課後や週末、教師と生徒が手作業で作った化粧品が、いまや世界中の人々から愛されるブランドに成長した。ブランドの成功の秘密は「Concept Moderne(モダンなコンセプト)」。誕生から四半世紀になっても、ブランド力は衰えることを知らず、大きく飛躍し続けている。

このブランドのクリエイター、ダニー・サンズは、生来のアーティスト。絵画や彫刻を修めた知識と経験は、芝居の舞台装飾に活かされる。やがて、舞台に立つ登場人物の顔や身体にペンキを塗り始める。こうして独学で習得したボディー・ペインティング。ある偶然の出会いが、本格的なメイクアップ・アーティストの道へと進むきっかけとなり、コスメブランド誕生へとつながっていく。

(メイクアップとの出会い) 
「 アートの才能に恵まれていました。でも、生活の糧を得るのは容易なことではなかったので、スーパーのウィンドーの装飾をはじめ、さまざまなデコレーションをやりましたよ。嫌いではなかったのですが、もっとクリエイティブなところに身をおきたくて、芝居の舞台装置を装飾する仕事をはじめたのです。舞台装飾の延長で、人の肌にペイントをするようになりました。」

(メイクスクールのプロフェッサーへ)  
「舞台メイクといっても、どこかで習ったわけではありません。そんなある日、友人から、クリスチャン・ショボーがメイクスクールを開校するためにアシスタントを探していると聞きました。それまで、メイクアップを本格的にやったことはなく、「aucune idée」、見当もつきませんでしたが、友人の勧めで、ショボー氏に会いにいきました。「メイクアップ・アーティストか?」と聞かれたので、正直に「Non」と答えました。その場で、制作するように指示があったので、知っている限りのテクニックを見せたところ、驚いたことに認められたのです。その後、17年間、プロフェッサーとしてこの学校の発展に貢献しました。」

(ブランド誕生の裏事情) 
「生徒に教えるようになって、当時の化粧品では物足りなくなりました。生徒たちからも、不満の声が出ていました。既製の化粧品を混ぜ合わせて、新しいカラーをつくっていたのですが、自分たちでプロ向け化粧品を作ることになりました。仲間4人で出資し、あるブランドを立ち上げました。化粧品を売るのが目的ではなく、生徒たちのリクエストに応えようとしたのです。」

(ブランドの誕生秘話) 
「このブランドはうまくいきませんでした。数年後に終止符を打ち、私は夫と共に新しいブランドを立ち上げることにしました。1984年のことです。当時、私たちには資金力がありませんでした。銀行からは、ほんの少ししか借り入れをすることができなかったのですが、教え子たちが少しずつ資金を集めて、私たちにお金を貸してくれました。」

(メイクアップフォーエバー誕生) 
「パリのラ・ボエシ通り5番地。メイクアップフォーエバーが誕生しました。ここは、現在も本店です。当時、私はショボー学校のプロフェッサーを続けていました。昼間教えて、夜や週末、生徒と一緒に製品をつくりました。父も手伝いに来てくれましたね。原料を溶かすために、キャンプで使うポータブルコンロを持ち込みました。アイシャドーは、スプーンでひとつずつ瓶やパレットに詰めたことも懐かしく思い出されます。アイシャドーのカラーは、当時から100色を超えていました。アイシャドーカラーのパイオニアと自負しています。色を間違えて混ぜ合わせたために、新色ができたこともありました。」

生徒たちの要望にこたえるために生まれたブランドは、国際色豊かな卒業生たちが各国からやってきて持ち帰り、評判はまたたくまに広がっていく。成功の秘密は、モダンなコンセプトと言うダニー・サンズは、常に時代を先取りし、革新的な製品を次々と提案。やがて、プロ向けに生まれたこのブランドは、世界中の一般大衆の手にも届くブランドへと生まれ変わっていく。

(プロから一般の人たちへ) 
「既存のものよりセクシーな製品をつくりました。卒業生を通してブランド名が世界中に広まり、デパートで販売しないかという誘いが絶えませんでした。プロフェッショナル向けにつくったブランドですので、一般大衆向けに販売することに躊躇しました。韓国をはじめ、外国ではデパートで販売することに同意したのですが、フランスではプロ向けにこだわり続けました。フランスの大手化粧品会社などから、様々な勧誘があり迷いました。ブランドの発展を考えて、最終的に、高級製品を扱うモエ・ヘネシー ルイ・ヴィトングループの傘下に入ることを決意したのです。その後も、ブランドの勢いは弱まることなく、中東をはじめ世界的に大きく発展していっていますので、この決断はよかったのだと思います。」

(アーティスト育成)
「メイク学校で教えていたことが、全ての始まりでしたから、未来のアーティストを育てたいという気持ちは常にありました。20029月に、本店の奥でスクールを始めたところ30人の生徒が集まりました。ブランドが生まれた当時、生徒たちが集まって製品詰めを行った地下のカーブが私のオフィスでした。いまもそうです。スクールは大成功をおさめ、翌年の希望者は57人にふくらみ、本店では収まらなくなりました。そこで、パリ中を歩いて物件を探し、開校予定日の前日に鍵を受け取り、新しい場所でアカデミーがスタートしました。ブランド誕生の原点を忘れることはありません。」

メイクアップフォーエバー・アカデミーに関しては、本誌12号でご紹介したので、そちらを参照していただきたい。メイク学校の生徒たちの要望に応えて生み出されたブランドは、プロ向けと一般の人々向けという、2つのアイデンティティーをあわせもち、世界的なコスメブランドの地位を築いた。時代がハイビジョン・テレビを生み出すと、それに映えるハイビジョン・コスメを提案する。次の提案は何だろう。そして、どんなアーティストを輩出するのだろう。

(2010年8月 H&M PRESS V12掲載)

2011/02/23

フランスの女性~ラシダ・ダチさん


フランスには、素敵な生き方をしている女性がたくさんいます。
ラシダ・ダチさんについて書いた記事をまとめました。

200899日 mainichi.jpによせたコラムから
フランスの閣僚として、初めてのシングルマザーが誕生するかもしれない。移民系の女性で初めて法務大臣という重要ポストに抜擢されたラシダ・ダチ法相。サルコジ政権がアピールする多様性のシンボルともてはやされてきた。閣僚としては若いが、母親としては高齢といわれる
42歳だ。フランス社会は、「異例」とも言われそうな彼女を問題視しない。

夏の休暇が終わるとダティ法相のお腹がふっくらと目立つようになっていた。AFPによると、先週なかば、閣議前にお気に入りのジャーナリスト数人と朝食を共にし、懐妊の事実を認めた。ル・モンドの電子版は、その日の午前10時すぎに情報を流し、「まだ安定期に入っていないので慎重にしたい。子どもを持つことは以前から望んでいた。実現したら嬉しい」という法相のコメントを伝えた。閣議後に姿を見せたダチ法相は、大きくなったお腹を隠そうとする様子もなく堂々としている。

独占インタビューを行った週刊誌ル・ポワンによると、法相はできるだけ長く公務を続けるつもりだと言う。これに対する表立った反対意見はない。フランスでは、社会党の大統領候補だったセゴレーヌ・ロワイヤルさんをはじめとして、これまでに3人の女性閣僚が任期中に出産している。ロワイヤルさんは1992年に環境大臣だった時に4人目の子どもを出産し、すぐに公務に戻っている。

ダチ法相は独身で、決まったパートナーの名前を公表していない点が3人の女性閣僚とは異なる。「私の私生活は複雑」として子どもの父親については堅く口を閉ざしている。法相が懐妊を認めた翌日、国営放送フランス2が、スペインのアスナール前首相が父親説を否定したと伝えていた。アスナール前首相とダティ法相は、去年12月にサルコジ大統領とカーラさんが主催したパーティーで知り合い、親しかったようだ。スペインの前首相のほかにも、フランスの現職閣僚、有名レストランの経営者、マスコミ関係者の名前が挙がっている。インターネットで噂が飛び交っているようだ。

ダチ法相は、60年代にフランスに渡ってきたモロッコ人の父親とアルジェリア人の母親から生まれた複数の子どもたちの2番目。自伝「あなたの判断にゆだねる」(Je vous fais juges, 2007年)によると、1992年に家族が決めた男性と言われるままに結婚したものの、4ヵ月後に結婚の無効を申請した経験を持つ。以後、独身だ。北アフリカの伝統的な家族観に縛られず、フランスの自由な現代女性の最先端を闊歩していく。

出産の予定は来年1月。これから公務も忙しくなりそうだ。一刻も早く安定期を迎えて、公私ともに望みを叶えて欲しい。

2009年1月6日 mainichi.jp「パリ便り」コラムから

2000年から年間80万を超える赤ちゃんが生まれているフランスでは、今年もベビーブームが続きそうだ。新年明けて早々、法務大臣のラシダ・ダチさん(43)が女児を出産した。予定日よりも2週間ほど早く、帝王切開での出産だった。大きなお腹をもろともせず、かかとの高く細いハイヒールをはいて颯爽と歩く姿をテレビニュースで見たのは数日前のこと。出産後も病院から法務省に指示を出して仕事を続けているそうだ。出産休暇はできるだけ短くし、法相のイスを空けるのは数日間にとどめる予定らしい。

ダチ法相は結婚をせずに出産したが、これはフランスの現代的な傾向を物語っている。2006年ごろから婚外子が50%を超えており、約半数の子どもは結婚していないカップルから生まれている。しかし、43歳という高齢出産は、フランスでもまだ珍しい。2007年の平均出産年齢は、29,8歳。40歳以上で出産したのは、全体の4.6%にとどまる。

高齢にもかかわらず臨月に入っても精力的に活動する姿を見て、感心したが心配にもなる。ところが、ダチ法相は「疲れていないか」と聞かれるのにうんざりしていたそうだ。日刊紙ル・フィガロによると、ダチ法相にとって妊婦のイメージは10人の弟妹を出産した母親にあった。妊娠中も出産後も元気に動き回っていた母親の姿を自分に重ね合わせて、黙々と仕事に打ち込んでいたようだ。

去年9月に妊娠を公表してから、子どもの父親は明らかにされていない。インターネット上のあるサイトは、早々に父親説を否定したスペインの前首相の名をあらためて挙げている。モロッコの有力な情報筋をネタ元にしている。また、出産後、サルコジ大統領の長男が産科クリニックに駆けつけたことから、新たな噂が飛び交っている。1231日に、サルコジ大統領の側近やカーラ夫人の友人たちなど10数名が大統領府に招かれたが、その重要人物のなかにダチ法相も入っていた。サルコジ大統領とは疎遠になりつつあるとも言われているが、大晦日をともに過ごしているところを見ると、なんらかの切れない関係がありそうだ。

サルコジ大統領の意向をうけて、法曹界を敵に回しながらも司法改革を実行してきたダチ法相だが、今月下旬に予定されている内閣改造で、ポストを追われるのではないかとささやく声もある。石油大手企業からのオファーがあり、政界から財界へ華麗なる転身をとげるのではないかとも言われている。

2010年3月 mainichi.jpコラム最終回から抜粋 
移民系出身で初めて重要ポストに抜擢されたと騒がれたラシダ・ダチ法務大臣は、シングルマザーとなってからもメディアの注目を集めている。最近、テレビやラジオに出演し、プライベートライフを語りはじめた。両親とその子どもたちを家族の形と考えるイスラム教の家庭でありながら、フランスが誇る「自由」を許容するダチ法相の家族。テレビ番組では、この実態が驚きを持って伝えられた。フランスに暮らしながらもイスラム教の慣習に縛られている女性たちは、ダチ法相の自由な生き方に影響を受けたことだろう。

ダチ法相の出産は、私自身にも大きな影響を与えた。40歳をすぎた働く女性が妊娠したというニュースは、同年代の働く女性たちを勇気づけた。

日本にいた頃、キャリアか出産かの選択に迫られている気がして、仕事と子育ての両立など想像もできなかったことが、なぜフランスでは実現できるのだろう。

多様で複雑な家族の形、自由なオトコとオンナの関係や女性の生き方を認める社会の懐の深さが理由であるように思う。

2011年2月23日
ラシダ・ダチさんは、2009年6月に法務大臣を辞め、7月から欧州議員として政治活動を続けています。


 

フランスの家族の形~義理の親

出生率と離婚率の高いフランスでは、子連れ同士の再婚や同棲も珍しくない。親の恋人や再婚相手と暮らす新しい家族の形を「複合家族」といい、フランスではおよそ200万人の子どもたちがこの環境の中で生活している。複合家族の増加にともない、継父や継母ら「義理の親」の権利を法律で定めようという動きが出てきた。

ル・モンド紙に意見を寄せたダティ法務大臣によると、「継父・継母は、第二の父親、母親としてフランスの家族のなかで大きな役割を果たしているにもかかわらず、フランスの法律には、その存在や権利を規定するものがない。」同居相手の子どもを学校に迎えに行くためには委任状を提出しなければならず、病院へ連れて行くためには同居相手の許可が必要である。ダティ法相は、こうした事前許可がなくても日常生活に必要な行動ができるように法制化に取り組もうとしている。

「義理の親」の規定については、サルコジ大統領も前向きだ。去年の夏、労働大臣に検討するよう指示し、「全ての家族を支え、助けたい」とメッセージを送った。サルコジ大統領自身、複合家族に暮らしてきた。前夫人のセシリアさんとは、彼女の娘2人とセシリアさんとの間に生まれた息子、常に同居していたわけではないが自分の息子が2人。カーラー夫人とは、彼女の息子とともに新しい家族をつくっている。複合家族が抱える問題は他人事ではないだろう。

一方、SOS PaPaというフランスのパパたちの組織は、法制化に異を唱えている。「学校への送迎のような日常の問題は、法律で定めるまでもなく各自が解決してきた。法制化により生みの親と育ての親が争う危険が出てくる」。SOS PaPaによると、別れたカップルの9割で、父親が子どもに会えるのは隔週末のみで、時とともに子どもに会う機会が減っている。日本と同じで、母親が子どもの親権を得ることが多いフランスで、子どもと暮らしたくても暮らせない、会いたくても会えない父親がいる。

娘は別れた妻と暮らし、自らは新しい妻の息子と暮らすアラン(52)は、「子どもの教育の義務を果たすのは実の親。長女とは隔週末しか会えないが、躾や教育は自分の役目」だと言い切る。一緒に暮らしている妻の息子に関しては、妻の元夫とも友好的な関係を保ちながら成長を見守っている。妻の元夫が「親」としての役割を果たせるよう尊重し、自らは「代理の親」だと表現する。あくまでも「親」は生物学上の親であり、「義理の親」の権利は学校の送り迎えなど限定的なものにとどめるべきだと考えている。

家族の形が多様化したフランス。「義理の親」の規定を巡る議論は続きそうだ。

(mainichi.jp 2008422日掲載)

2011/02/14

フランスのオトコとオンナの事情8(最終回)

アンヌの家に、スーツケースをかかえてやってくる日本人女性は一ヶ月ほどすると姿が見えなくなった。父は、モノを買い揃え歓待したが誰も一ヶ月もたない。彼女たちは、大邸宅で繰り広げられる複雑な<家族>に馴染めず、パリの小さなアパルトマンで父と暮らしたいと訴える。頑として譲らない父に愛想を尽かし、彼女たちは大邸宅を後にした。

意を決した父は、アンヌの母に共同生活の解消を申し入れた。娘たちの部屋を確保しつつ、日本人女性を迎えるためには、アンヌの母に出て行ってもらうしかない。声を荒げた話し合いが何日も続いた。家賃や引越し費用を負担したのは父だけれど、この大邸宅を探し、暮らせるように準備を整えたのはルテシアの母だ。

母は荷造りを始めたが、引越し先が見つからない。この間も日本人女性がやってきて、しびれを切らせて去っていった。父は肩を落としたが、数日後にはインターネットで代わりの女性を探し始めた。「日本人形が欲しい」、父が探しているのは、自己主張をしない人形のような女性だ。

そうこうしている間に、父の妹が二回目の離婚を決めた。父は家を追い出された妹の元夫を自分の家に迎え入れた。更に、恋人の男性と別れ行き場を失った男友達のために、居間に簡易ベッドをつくってあげた。大邸宅は無料ホテルと化して、様々な人が出入りした。

アンヌは、メークアップアーティストを目指して学校に通い始めた。妹は、母親のような看護婦になりたいと学業に励んでいる。2週間毎の週末、アンヌと妹はそれぞれの恋人を連れて父の家で過ごすようになった。父の恋人や友人たちに囲まれて、それぞれがBon week-end (よい週末)を楽しんでいる。

時折、アンヌは親子3人の写真を眺める。両親に連れられてエッフェル塔付近を散歩した時のもので、3人だけの最後の写真だ。しかし悲壮感はない。写真には写らないが、父子の絆、母子の絆は強い。それらの絆は、目に見えないアンヌの<家族>としてしっかりとつながっている。

8回に渡って書き綴ったアンヌの<家族>は、ひとまず終わり。事実は小説よりも奇なりとは、フランスのオトコとオンナにあてはまる。小説や映画に出てくるような人々に出会うたびに唖然。感情に正直すぎる生き方にまた唖然。自分の幸せを探し求めるパワーに圧倒させられる。

家族観・人生観は多種多様、模範解答なんて存在しない。オトコとオンナの事情に柔軟なフランス社会を今後も観察していきたい。

(mainichi.jp 2007年6月8日掲載)

フランスのオトコとオンナの事情7

アンヌと妹の部屋をはさんだ階段の踊り場。大きな机を置く父は、ここでコンピューターに没頭することが多くなった。座右には日本語の辞書があり、メールのやりとりに挨拶など簡単な日本語を交えている。アンヌに写真を撮ってくれとカメラを渡し、上目遣いに微笑んだ。

最初の妻だったアンヌの母と共同生活が始まると、父はアジア系の恋人を連れ込むようになった。最初はラオス人、続いてベトナム人。次第に、台湾人や中国人。パリにも中華街があり、中華料理を食べに行っては新しい恋人に出会った。

父のように、フランス人女性との結婚生活が破綻するとアジア系の女性を追い求めるフランス人男性がいる。「どこに行けばune femme asiatique(アジアの女性)に出会えるの?」パリの街角で何度も耳にした言葉だ。アジア系の女性はおとなしく従順だというイメージにとりつかれている。このような男性を「アジセン」(アジア系専門)と呼ぶ。

父は日本文化に興味があり、次第に大和撫子を探し求めるようになった。「アジセン」から「ジャポセン」(日本人女性専門)へ。パリ市内の日本書店や日本語を教える学校などにアノンス(小さな広告)を貼り歩いた。《日本に興味があります。フランス語と日本語の交換授業をしませんか?》。

フランス語で交換授業はéchange という。授業料をかけず、会話に磨きをかけたい日本人と日本語を学びたいフランス人にとって効率的な言語習得方法だ。多くの場合、échangeは名目で、お互いにパートナーを物色している。父もéchangeで数人の日本人女性に出会ったが、イメージに合わない。パリで出会う日本人はフランス人女性並みに自己主張が強いと父は嘆いた。

日出づる国 Soleil levantから人生の伴侶を迎えたい父は、とうとうインターネットで日本人女性を探しはじめた。メールでéchangeを申し入れ、写真を交換し、電話をかけあい、遥々日本まで会いに行く。

アンヌの父のパスポートは日本の出入国スタンプで埋まっていく。

(mainichi.jp 2007年6月1日掲載)

2011/02/09

フランスのカップルの形②~パックスその2

結婚でも同棲とも異なるフランス独自のカップルの形、パックス(PACS)がはじまって今年で10周年を迎えた。日曜日に発売される新聞、ル・ジョーナル・ド・ディマンシュは、一面に「パックス大成功」と見出しをかかげ、この契約を称えている。10年間でパックスを結んだカップルは50万組を超えた。

去年1年間に結婚したカップルは273500人。10年間ほぼ横ばい。一方、パックスを結んだカップルは20倍増えて、143000人。婚姻制度を崩壊させることなく、この新しい制度はフランス人を魅了し、定着した。

理由は、結婚に比べて契約の締結や解消が簡単で、結婚しているカップルと同じように一つの世帯として所得税の申告ができること。このほか、結婚までの第一ステップ、つまり婚約のように位置づける人も多い。子どもを授かるなど、あるきっかけで結婚に進んでいく。

パックスは、フランスだけでなく、フランスに住む外国人にも認められている。条件は、国籍を問わず共通で、兄弟姉妹など直系親族同士でないこと。重婚およびパックスをすでに結んでいる状態でないこと、など。

2007年にコラムでパックスをご紹介した後、私も日本人のパートナーとパックスを結んだ。
フランス人の動機と同じで、簡素な手続きや税制優遇措置に惹かれたこと。パスポートや証明書などの姓を変えることなく、カップルとして公に認められることも魅力だった。

区役所と同じ建物のなかにある小審裁判所で必要書類を聞く。外国人であり離婚経験のある私の場合、日本から取り寄せる書類が多く複雑だった。フランスに支払う手数料は全くないが、書類を法定翻訳家に依頼しなければならず、その額は決して安いものではない。

次に、大審裁判所の別館に出向いて「パックス未締結」の証明書を発行してもらう。所用時間5分。再び小審裁判所に行き、書類を提出。指定された日に、小審裁判所に出向くと、小さなオフィスに呼ばれて、A4の紙に2人の名前、生年月日、出生地が記載された「連帯市民契約締結宣言記録受領書」が一枚ずつ手渡された。「紛失しても再発行しないので注意して。はい、終わり」、評判通り簡素な手続きだった。

家族も友人も同伴せず、セレモニーもない。現代フランス人の仲間入りをした。日本にいる時よりも、2人で暮らすための選択肢がひとつ多かったのは喜ばしい。

(mainichi.jp 2009年1月26日掲載)

※書類の翻訳に懲りたにもかかわらず、その後
結婚することを決め、再び、書類の山に埋もれました。

フランスのカップルの形③~結婚

グラフィックデザイナーのシャルロット(30)と医療機関に勤めるパスカル(40)1年前に知り合い、3ヶ月ほど前に結婚することを決めた。来年8月にカトリック教会で結婚式を挙げる予定だ。

フランスでは1970年代には約40万組が結婚式を挙げていたが、年々減り続け去年は274400組。そのうち、教会で挙式するカップルは半数で、結婚と教会から遠ざかる傾向がある。

2人が結婚を選んだのは、両親が離婚をせずに今日に至っているから。約半数の夫婦が離婚するフランスで、彼らの友人たちは結婚に不安を感じ、離婚を恐れているという。2人は幸いにも結婚にマイナスイメージを感じていない。

パリ14区にある近所のカトリック教会を訪ねた2人は、結婚式までの準備を司祭と話し合った。挙式準備中のほかのカップルたちと交流して意見交換をしたり、結婚10年、20年を経た既婚カップルから経験談を聞いたりする。

こうした交流会は、カトリック教会の「結婚準備センター(Centre préparation au mariage)」が主催し、フランス全土では毎年10万組が参加するが、パリでは700組ほどにとどまる。
大都会のカップルは伝統的な準備過程を敬遠する。

責任者として20年来係わっているクロード・エリアル氏によると、「以前はグループ交流が主だったが、10年ほど前から年配夫婦と個別に面談するケースが増えている」と言う。これなら、膝を付き合わせて話をすることができる。

シャルロットとパスカルも、一組の年配夫婦を訪ねる予定だ。「貞操義務とは、夫婦の危機をどう乗り越えたか、子どもが生まれたら、生まれなかったら。生活の基盤について話を聞くことは重要」とシャルロット。

コミュニケーションを深めるには努力が必要。週末の予定や晩御飯のメニューを話し合っても深まらない。「お互いの考え方や違いを知る機会にしたい」とパスカル。2人はクリスマスに婚約し、年明けにも年配夫婦に会いにいく。

日本では憧れの教会ウェディングだが、フランスでは多くのカップルが「古い、わずらわしい」と表現する。教会での伝統的な結婚を望む2人のようなカップルは貴重な少数派だ。
(mainichi.jp 2007年11月13日掲載)